毎週水曜日は、SG(スーパーガレージ)に弁当持参で立ち寄って、お昼ごはんを食べる。27日に訪ねたところ、24日の石川県で開催された全日本戦で、なんと!優勝したとのこと。
なんと、なんと、早速、弁当を食べるのを中止し、激写。(iPhoneしか持っていなくて残念。)26年前、全日本戦で優勝するなんて、想像できなかったぞ。
ハイ、ポーズ、ポーズ、激写!
ダンロップのモータースポーツサイトに様子が出ている。
「DIRTTRIAL (全日本ダートトライアル選手権)レースリポート第4戦 6月24日(日) ダートスプリント in 門前」ダートトライアルは、ブリジストンが撤退してしまったので、現在2社しかダートラタイヤがないらしい。(ヨコハマ)
やっぱし、優勝となると契約のオファーがあったようだが見合わせたとのこと。自分的には、もったいないと思うのだけども、彼は違う。縛られず自由に楽しくダートラをしたいという基本理念があるようだ。一匹狼なのだ。イイネ!サンデースポーツの原点は、そうでなくっちゃ。
なので、彼のシビックは自店関係のステッカーが貼ってあるぐらいで、「無印良品」のような車であった。
今年の、戦歴が楽しみだ。
2012年6月28日木曜日
2011年12月11日日曜日
25年積もったホコリ
![]() |
| 棚は自作 |
しかし、25年の劣化によりさすがの釣り糸も切れてしまったようだ。ぇ、なんのトロフィーかって?もちろん、ダートトライアルの6位以内でもらえるトロフィーである。右の大きなものは優勝、1位なのである。
ふと、むかしを思い出した。毎日、見ているのであるがすっかり忘れてしまい壁の一部と化しているようだった。車を操る楽しみ、100分の1秒を競う緊張感、楽しかったなぁ。
| 2速全開フルブレーキングちょいサイドブレーキの直角の左コーナー。 この後は急激な下り、少々オーバースピードで駆け下る。決まれば気持ちよさ全開なのである。 |
すごいホコリw。(クリックして拡大しないほうがいいかも)もう一箱ある。
短いような長いような25年。最近はダートトライアルカテゴリーは更新してないな。
よし、来年辺りから、ボチボチとまた昔の写真を電子化していこうかな。
2011年9月23日金曜日
EKシビックダートラ車
2011年6月7日火曜日
オイル交換・ミラージュ
| オイル交換 |
| ミラージュ |
駐車場には、今年度の県シリーズ戦を闘う「ミラージュサイボーグ」マシンがあった。ラリーアートデザインのペイントがカッコ良かったので、SGのロゴ部分をアップに激写。
SG店長さんは、今年もダートトライアルを楽しむようであった。
2010年11月22日月曜日
1984年12月オールスターダートトライアルフェスティバルin鈴鹿
やっと、まとめた『1984年12月オールスターダートトライアルフェスティバルin鈴鹿』。
スキャナーで取り込んだは、9月陶だったと思う。それから、画像処理を一枚づつして、ムービー化して、BGMを付けた。忙しいとか言って、まぁ、けっこう楽しいんだけどね。
この年は、1月にオールスターダートトライアルフェスティバルが鈴鹿であって、11月(たぶん)に、やはり鈴鹿で関東選手権があって、さらに、この年からJAF公認の全日本選手権となって、北海道から沖縄までの代表選手が勢揃い、まさに真のオールスターダートトライアルフェスティバルが12月に開催された。
そんなわけで、この年は3回も鈴鹿に行ったというわけだ。今思えば、すごいエネルギッシュ。まぁ、趣味としてこのダートトライアルにのめり込んでいたからねぇ。苦ではなく、楽しくて楽しくてしょうがないという感じだったなぁ。
そうだった、関東選手権の動画をこのブログには載せてなかったよ。この大会は、全日本選手権の一月程前の同じ鈴鹿で開催されたから、全日本に出場する車は最終仕上げ段階だったし、他の関東選手権出場選手は今年度最後の戦いに花を咲かせようと本気度全開だった。ような記憶がある。
このころの、改造車モンスターマシンは驚いちゃったなぁ。ほんと、楽しかったよ。
この「じゅんスプリンター」は、バギー乗りの池沼純一さんらしい車で、リヤにエンジンがあってバギー車にスプリンター(カローラ)ボデイを乗っけたまんまって感じだったなあ。
長野県勢も頑張っていた。若い頃の粟津原選手もVサインだしてもらって激写した。彼のドリフトは凄かったし、速かったんだよね。ただ、写真枚数が少ないのが残念だな。ま、今みたいにデジカメでガンガン撮影できる時代じゃなかったからねぇ。
スキャナーで取り込んだは、9月陶だったと思う。それから、画像処理を一枚づつして、ムービー化して、BGMを付けた。忙しいとか言って、まぁ、けっこう楽しいんだけどね。
この年は、1月にオールスターダートトライアルフェスティバルが鈴鹿であって、11月(たぶん)に、やはり鈴鹿で関東選手権があって、さらに、この年からJAF公認の全日本選手権となって、北海道から沖縄までの代表選手が勢揃い、まさに真のオールスターダートトライアルフェスティバルが12月に開催された。
そんなわけで、この年は3回も鈴鹿に行ったというわけだ。今思えば、すごいエネルギッシュ。まぁ、趣味としてこのダートトライアルにのめり込んでいたからねぇ。苦ではなく、楽しくて楽しくてしょうがないという感じだったなぁ。
そうだった、関東選手権の動画をこのブログには載せてなかったよ。この大会は、全日本選手権の一月程前の同じ鈴鹿で開催されたから、全日本に出場する車は最終仕上げ段階だったし、他の関東選手権出場選手は今年度最後の戦いに花を咲かせようと本気度全開だった。ような記憶がある。
このころの、改造車モンスターマシンは驚いちゃったなぁ。ほんと、楽しかったよ。
この「じゅんスプリンター」は、バギー乗りの池沼純一さんらしい車で、リヤにエンジンがあってバギー車にスプリンター(カローラ)ボデイを乗っけたまんまって感じだったなあ。
長野県勢も頑張っていた。若い頃の粟津原選手もVサインだしてもらって激写した。彼のドリフトは凄かったし、速かったんだよね。ただ、写真枚数が少ないのが残念だな。ま、今みたいにデジカメでガンガン撮影できる時代じゃなかったからねぇ。
2010年9月2日木曜日
1984オールスターダートトライアルフェスティバル
自分のダートトライアルの記事は長らく更新していないが、そろそろ書こうと思っている。そんなわけで、とりあえず1984年の1月22日に開催された。オールスターダートトライアルフェスティバルをムービー化した。
このときは鈴鹿なのに雪が降ってビックリ。(あまり珍しくないかもしれないが)写真は14枚しか残っていない。当時は、デジカメなるものなどなく。PENTAXの一眼レフカメラをもって激写していた。レンズはほとんどが200ミリ(だったかな)の望遠レンズで撮影している。
この年は、どうだろうお金がなくて12枚撮りのフィルムを1本持っていっただけのような気がする。か、激写していると集中して見れないし、いろいろと動きまわらないといけないし、面白くないんだよね。だから、撮影数を少なくして観覧席に座ってじっくり見ていたのかもしれない。
古いアルバムから写真をスキャナに4枚づつならべPCに取り込む。1024×768まで引き伸ばしてもかなり解像度が良い。その画像を明るさ補正、色調整し、シャープネスを少々効かせ、傷やニジミをレタッチして修正する。
それを、5秒のパン拡大モードでムービー化し、タイトル画面を追加する。それに、今回はBGMを自作してハメ込んでみた。なにしろ、音楽関係は無縁と言っても良いので、繰り返しのパーツを組み合わせただけだ。音楽のセンスはいまいちなんだなこれが・・・。
2009年10月10日土曜日
1982年 日産パルサーデビュー
A12型と言えばサニー1200GXが有名である。同じエンジンを積んだ「チェリーX1L」に乗ったことがあるが、とんでもないエンジンだった。あの吹き上がりとレスポンスに度肝を抜かれた。発進の時に少し気を抜くとエンストだ。一踏みすればOHVエンジンでSUツインキャブなのに、もちろんターボなんて積んでいない。まぁ、近世でいえばドッカンターボのような加速が味わえた。
路面から伝わる駆動感は柔な腕力では骨折、突き指・・・少々オーバーかもしれないが、いまのパワステ感覚しか知らないドライバーはビビるだろう。
X1Rはオーバーフェンダーが付いていて足回りもガチガチにチューンしてあったというが、そうとう凄かったことだろう。残念ながら乗ったことはない。
当時はチェリーはけっこうダートトライアルにはお目見えしていた。でも、サニーの方がだんトツに面白かったよね。FRとFFを比べると派手にドリフトできるFRが人気があった。でも、シビックRSなんかは勝ち狙いでよく参戦していた。
パルサーはこのチェリーが生まれ変わった後継機種だ。E13型エンジンは、A12型の再来といわれた。
A12型のような強烈な感覚は無いけれど、E13型はけっこう回ってくれるエンジンだった。納車された日に、内装を剥がした。軽量化だ。そして、アブソーバーを交換した。たしか、KYBのガスだったと思う。タイヤは12インチのド鉄ホイールにBSのRE37R(だったかな)ダートラタイヤをつけた。
アンダーガードはFRP製のものを取り付けた。あとは、シートをバケットにかえて、4点式シートベルトを付けた。ロールバーを入れる予算がなかった。そうして、練習した。一ヶ月後には大会が待っていた。
田んぼに落ちたのは、納車して一週間後のことだった。つり上げてもらったが運がよかったのかどこも壊れなかったし、傷や凹みもなかった。こんなこともあったので、周りの人間は心配していたようだ。だって、FRからFFに乗り換えたんだから。
カラーリングの費用がなかったので、赤と緑のビニールテープでカラーリングした。自分ではけっこうお気に入りだったけれど、貧乏くさくて不評だったらしい・・・・。 そうして、チャンピオンシリーズ第一戦は3月7日に開催された。ラリー車クラスではなくて、B-1クラス出場である。はれて?ダートラ専用クラスデビュー!
肝心の走りのほうは、無の心境で走った。スローインファーストアウト、そして、アウトインアウトを忠実に守った。B-2クラスで優勝を何度もしていた当時の先生がそういう走りをしていたからだ。
自分でも速いのか遅いのか分からなかった。ただ、FFはアンダーが出やすい、そして、タックインという巻き込みがあると頭では分かっていたが、感覚的にはよくわからなかった。
結果は、B-1クラス優勝!なんだか驚いた、周りの人間もけっこう驚いていた。このクラスでシリーズ優勝しているシビックRSを駆るドライバーにジロリと見られたのを覚えている。
このシビックRSが最大のライバルとなって自分の前に立ちはだかってくるのである。そして、この夜。大宴会を催し、飲み明かしたのは言うまでもない。
だが、浮き足立った自分を打ちのめされる時が来るのはすぐのことだった。このFFという車をまだまだ自分のものにしていなかったことに気づかされるのである。
肝心の走りのほうは、無の心境で走った。スローインファーストアウト、そして、アウトインアウトを忠実に守った。B-2クラスで優勝を何度もしていた当時の先生がそういう走りをしていたからだ。
自分でも速いのか遅いのか分からなかった。ただ、FFはアンダーが出やすい、そして、タックインという巻き込みがあると頭では分かっていたが、感覚的にはよくわからなかった。結果は、B-1クラス優勝!なんだか驚いた、周りの人間もけっこう驚いていた。このクラスでシリーズ優勝しているシビックRSを駆るドライバーにジロリと見られたのを覚えている。
このシビックRSが最大のライバルとなって自分の前に立ちはだかってくるのである。そして、この夜。大宴会を催し、飲み明かしたのは言うまでもない。
だが、浮き足立った自分を打ちのめされる時が来るのはすぐのことだった。このFFという車をまだまだ自分のものにしていなかったことに気づかされるのである。
2009年9月8日火曜日
1982年オールスターダートトライアル(SUZUKA CIRCUIT)
この年のオールスター戦は例年どおり、鈴鹿サーキットモトクロス場で行われた。今年も来た。今年も鈴鹿に来ることが出来た。ここに集まった人々はそんな思いが頭をよぎり、1月の寒風も熱い心に春風のように感じられたことだろう。
自分は、この大会ではメカニックとして鈴鹿に行った。鈴鹿のレストランや宿舎が思い出に残っている。メカニックといっても、エンジンの調子を見たりとか、足回りを瞬時にチューンしたり修理したりするメカニックと違う。
ま、雑用係りといったほうがいい。タイヤを運んだり、タイヤ交換のおてこをしたり、車体をきれいに拭いたりの仕事だ。でも、なんといっても一般客には入れないパドック内をウロウロ出来るだけで満足だった。
この日のために作り上げたカラフルで速そうな車たち、山と積まれた新品のタイヤ、散乱する工具類、つなぎ、レーシングスーツ、フルフェイスヘルメット、レーシング手袋が目に浮かぶ。改造車クラスの心地よいエンジン音そしてマフラーの爆音。そして、レーシングオイルの焼ける匂い。ワクワクした。
でも、なにかとけっこう忙しかったのだろう。激写する時間もなかったのか、そんな必要もなかったのか9枚の写真と、25年程前のわずかな記憶しか残っていない。
忘れないのは、この鈴鹿の帰り道に消え去ろうとしているラリー車クラスの車ではなく、ノーマルクラスでガンガン走れる車を買うことを決意したのであった。
自分は、この大会ではメカニックとして鈴鹿に行った。鈴鹿のレストランや宿舎が思い出に残っている。メカニックといっても、エンジンの調子を見たりとか、足回りを瞬時にチューンしたり修理したりするメカニックと違う。
ま、雑用係りといったほうがいい。タイヤを運んだり、タイヤ交換のおてこをしたり、車体をきれいに拭いたりの仕事だ。でも、なんといっても一般客には入れないパドック内をウロウロ出来るだけで満足だった。
この日のために作り上げたカラフルで速そうな車たち、山と積まれた新品のタイヤ、散乱する工具類、つなぎ、レーシングスーツ、フルフェイスヘルメット、レーシング手袋が目に浮かぶ。改造車クラスの心地よいエンジン音そしてマフラーの爆音。そして、レーシングオイルの焼ける匂い。ワクワクした。
でも、なにかとけっこう忙しかったのだろう。激写する時間もなかったのか、そんな必要もなかったのか9枚の写真と、25年程前のわずかな記憶しか残っていない。
忘れないのは、この鈴鹿の帰り道に消え去ろうとしているラリー車クラスの車ではなく、ノーマルクラスでガンガン走れる車を買うことを決意したのであった。
2009年6月9日火曜日
「チームりんどうダートトライアル」ゼッケン49(1981年12月6日)
ァら?前回が1981年の最終戦だと思ったら、12月6日に行われた写真がアルバムにあったのでここに掲載ス。
この写真はけっこうお気に入り。絶妙な?4輪ドリフトをしている。車体もわずかに傾き横Gがかかっている。
キーー!ダートトライアルでは珍しいタイヤが鳴る音とともにスタートする。スタートから舗装がしばらく続き、この第一コーナー手前でダートになる。もちろん舗装を全開で加速するからブレーキングポイントが決め手。いかに我慢するかである。そして、サイドを引いてインを舐めるようにクリアする。
この左に曲がる第一コーナで、さらに写真の右側に回り込み(ハンドルを左に切って)下り坂になる、広そうなコーナーであるがじつはヘアピンコーナーなのである。このあとお尻を振り大きく旋回することになる。ここのコーナリングが決まると実に気持ちよいのだ。ここで決めないとこのあとがテンポよく走れないのだ。
この写真はたぶん、右側にパイロンがあってそれを舐めるようにフルターンしているところだと思う。
この姿勢。けっこう横Gがかかって、身体も苦しそう・・・・、いまいちパイロンから離れすぎかと思ふ。オーバースピードで入りすぎたにちがいない。この辺がまだまだ未熟な部分からくるもので自分自身に勝てないのだ。
大会前1ヶ月は腕立て伏せをして筋肉を付けたもんだ。そうすると、このフルターンの時の瞬発的なハンドルさばきが、違うのである。でも、この日の成績はラリー1クラス2位とアルバムには記してあった。やはり、ラリーストの彼に負けたのであろう・・・。
昭和56年度(1981年)の県シリーズ戦表彰式は翌年の1月15日にJAF会館で行われて、R-1(ラリー1)クラスチャンピオン第二位の認定をもらったのである。
このころ、ダートトライアルのなかでの「ラリー車クラス」という中途半端な?クラスは消えつつあった。ダートトライアル専門の人口が増えてきて「ラリー」と「ダートトライアル」という競技がはっきり区別され、ダートトライアル改造範囲もきちんと決められてきたのである。
そんな中、このスターレット1300S(KP61)はもうボロボロになっていたのである。ダートトライアルABクラス(ダートラ専用(無)改造車)に出場できる車が欲しいと思い始めていた。
この写真はけっこうお気に入り。絶妙な?4輪ドリフトをしている。車体もわずかに傾き横Gがかかっている。キーー!ダートトライアルでは珍しいタイヤが鳴る音とともにスタートする。スタートから舗装がしばらく続き、この第一コーナー手前でダートになる。もちろん舗装を全開で加速するからブレーキングポイントが決め手。いかに我慢するかである。そして、サイドを引いてインを舐めるようにクリアする。
この左に曲がる第一コーナで、さらに写真の右側に回り込み(ハンドルを左に切って)下り坂になる、広そうなコーナーであるがじつはヘアピンコーナーなのである。このあとお尻を振り大きく旋回することになる。ここのコーナリングが決まると実に気持ちよいのだ。ここで決めないとこのあとがテンポよく走れないのだ。
この写真はたぶん、右側にパイロンがあってそれを舐めるようにフルターンしているところだと思う。この姿勢。けっこう横Gがかかって、身体も苦しそう・・・・、いまいちパイロンから離れすぎかと思ふ。オーバースピードで入りすぎたにちがいない。この辺がまだまだ未熟な部分からくるもので自分自身に勝てないのだ。
大会前1ヶ月は腕立て伏せをして筋肉を付けたもんだ。そうすると、このフルターンの時の瞬発的なハンドルさばきが、違うのである。でも、この日の成績はラリー1クラス2位とアルバムには記してあった。やはり、ラリーストの彼に負けたのであろう・・・。
昭和56年度(1981年)の県シリーズ戦表彰式は翌年の1月15日にJAF会館で行われて、R-1(ラリー1)クラスチャンピオン第二位の認定をもらったのである。このころ、ダートトライアルのなかでの「ラリー車クラス」という中途半端な?クラスは消えつつあった。ダートトライアル専門の人口が増えてきて「ラリー」と「ダートトライアル」という競技がはっきり区別され、ダートトライアル改造範囲もきちんと決められてきたのである。
そんな中、このスターレット1300S(KP61)はもうボロボロになっていたのである。ダートトライアルABクラス(ダートラ専用(無)改造車)に出場できる車が欲しいと思い始めていた。
2009年5月28日木曜日
「チーム白樺・ロードナイト・ギャラリー合同ダートトライアル」ゼッケン44(1981年11月1日)
この日の会場は新島駅近くのプラントで行われた。周囲の山々は綺麗は紅葉も終わりをつげるころだ。この会場は細長く、2速全開で3速にも入るような直線があり、この直線のあとの緩やかなコーナーのあとにはジャンピングスポットがある。この路面は硬く締まっているので、ジャンプを思いっきりしても車が壊れるようなことはない。しかし、手前のコーナーでうまく姿勢を整えるかが腕の見せ所で、いかに姿勢を崩さずしかも速くジャンプにアプローチするかが問題。
このジャンプのあとにはコーナーが控えているので、気持ちよく?ジャンプしすぎるとブレーキが効かずオーバースピードでコーナーに侵入することになる。そうなると「曲がらない!・・・・」アンダーが出て大きなタイムロスとなってしまうのだ。
そんな失敗を一度経験しているしまた何度も見ているので、この日も低く控えめにジャンプしコーナーのクリッピングポイントを捕まえる。勝負するなら受け狙いは禁物なのだ。ここが決まればコース前半をうまくこなしたことになる。そして後半は長い直線を逆送といった感じになる。前回にアクセルを開けるとき見えるのは、ブレーキングポイント目印のために決めた凹みとか木とか、自分で置いた大きな石とかを、一点に見つめている。
この後半の直線を思いっきり全開で激走したあとは、たいがいドリフトでクリアする見せ場!?のコーナー設定となっている。どこで、ブレーキを踏みシフトダウンハンドルを切るかが勝負の分かれ目。もちろん、華麗な?ヒールアンドトゥでブレーキングドリフトに持ち込むか、またはシフトダウンドリフトを強めにするかは・・・・・その日のセンス!?
写真はまさにドリドリをしていることろであるが、いまいちインが甘いし、ブレーキが甘かった感じである。
この日の成績はラリー1クラス3位とアルバムに記してあった。この日は県シリーズ戦の最終戦であって、強豪揃いだったに違いない。
この大会で1981年の戦歴が終わったのである。さぁ次は、日本一のダートトライアラーを決める「鈴鹿オールスターダートトライアル」の観戦にいくのだ。
2009年5月20日水曜日
「チーム白樺ダートトライアル」ゼッケン31(1981年10月18日)


このころになると県シリーズ戦の上位入賞を完全に意識していた。最初のころはそんな意識は無かったけれど、県内で月2回ほど開催されている大会に出場しているうちに、ポイントが知らない間に積み上がっていたからだ。
もしかすると、県シリーズ上位3位いないに入れるかもしれない・・・・。1位は無理だろう。なぜならば、同じKP-61を駆るラリーストが「ラリー車クラス1」にはいたからだ。彼は豪快なドリフトをするわけではないが、確実にタイムを稼ぐ走りをした。
若いけれども、山道を何百キロも走り続け、百戦錬磨の大会を経験して鍛えたきた、KP-61乗りのテクニックには目を見張るものがあった。そこには、まだ超えられない大きな壁があるような気がした。
彼のお姉さんも選手として大会に出場していた。彼女は、可憐な細腕で、華麗なドリフトでTE71レビンを操った。なみいる♂選手たちをバッタバッタと倒していく場面もけっこう見た。なにか血筋みたいなものもあるのだろう。左のいまいちなショット写真は、別の大会(1981年8月2日)であるが彼女が写っている貴重な一枚、他に豪快な走りなどの写真は残念ながら残っていない。
この日の会場はプラントではなく、写真を見ていると、とあるラリーショップの近くにある広い空き地のような気がする。こういう空き地は路面が荒れてくるので、一回目のタイムで勝敗が決まってしまう場合が多い。成績は「ラリー1クラス2位 シリーズ戦Vol.6」と、アルバムに記してあった。
2009年4月25日土曜日
「チームりんどうダートトライアル」ゼッケン62(1981年10月04日)

この日の大会の成績表がアルバムにはさんであった。大会後、1ヶ月ぐらいすると2枚の写真とともに、このような手作り?の成績表が送られてきた。今では、走行直後にパソコンで打ち出されると聞いている。考えてみればのどかな世の中だった。この大会は県チャンピオンシリーズ戦なので、ポイント持ちの選手が顔を揃える。そのせいもあり、初心者は出てこないので、この日も「ラリー車1クラス」は8台と少ない。
入賞は6位からなのでこういう場合は、たいがい「ラリー車2クラス」に統合されてしまう。申込み受付がうまくいかなかったのかゼッケンが、とびとびになっている。(この大会の写真は、なぜか1枚しか残っていない)
賞品目的に入賞を狙うとなると不利であるが、シリーズ戦であればラリー車1クラスでポイントを稼ぐことが目的となる。ラリー車総合での順位は悪くてもよいのである。(でも、レビンやセリカに勝てると気分がよい・・・。)
この日はいつもの競合メンバーが出場していなかったせいもあったのだろう。66秒84のタイムでラリー車総合で3位にくい込んでいる。ちなみに2位は66秒83と100分の1秒差で「粟津原 豊」選手がいる。このころの競技車は「黒のランサー1600GSR」(と思う)で、豪快なドリフトでコーナーをクリアするのに驚いたことを記憶している。当時、彼がスズキスポーツから世界に飛び立っていくことになるとは思いもよらないことであった。
YouTube→「峠スペシャルバトル JWRCスイフト襲来!3」この動画の5分18秒あたりから「スズキスポーツの粟津原常務取締役」(現在の役職かどうかは不明)が登場する。自分と同じくすっかりおじさんになって(失礼)いる・・・。
このころは、この大会でシリーズポイント15となり、県シリーズ戦をしっかり追っかけていた。この成績表では、ラリー車1クラスではトップとなっているが、強力なライバルがこの大会は欠席しているのである。(たぶん、ラリー競技の関係で)
2009年4月14日火曜日
「チームギャラリーダートトライアル」ゼッケン49(1981年9月20日)
朝は6時には会場に到着するように、朝4時には自宅を出発した、遠い会場では3時半とかもありだった。だから、土曜日は車を洗いプラグを新品に交換し、競技用のタイヤを積み込んで準備万端にして、夜8時か9時には床に入った。会場に到着すると、即、タイヤを交換した。サイドをジャッキアップしての前後タイヤ同時に交換する。速攻でやれば15分程度で終了する。お金に余裕があれば、路面の状況を見て今回のタイヤはこれ、みたいにチョイスするところだが、ま、そんな余裕はもちろんない。
朝早くても、主催チームによっては、ベニヤ板に模造紙に書かれたコースが発表されている。そういうときは、さっそくコースの下見に入る。コーナーを一つずつ丹念に見ていく。運転している目線まで腰を落しその光景をまぶたに焼き付けていく。コースを走っている様子を想像する、時には自分の足で走ってみる。コースのライン取り、ブレーキを踏むポイント、ハンドルを切り込むポイント、サイドを引くポイント、そして、路面の凹凸も頭に焼き付けていく。
時間のある限り何周もコースを歩いてまわる。そして、スタート地点からゴールまでのすべてのコーナー、走行ライン、ブレーキングポイント、ハンドリング、車の動きをイメージトできるようにする。速いドライバーと一緒に歩いて教えてもらったり、ひそかに後をついて後略ポイントを盗み聞きしたりもする。勝負はもう始まっているのだ。
そして、何度も目を閉じ完璧に最後まで走る姿を想像し組み立てていく。ゴールまでイメージできれば完了だ。この、イメージトレーニングは頭の中でイメージするタイムと実際に走るタイムと不思議に誤差がほとんどない。何度も何度もイメージトレーニングする。たくさんの練習や大会に出た経験で、こういう路面やこういうコーナーでは、ここでハンドル切ればこう曲がって、ここでブレーキングをすれば、あーなって、こうなって・・・・等々、車の挙動が把握できていないとイメトレはできないのだ。
本番でそのイメージどおりに走ることができれば優勝への道が開ける。だが、そうはうまくいかない。路面状況、タイヤのワダチ、自分の体調や心身の状態(緊張感など)で刻々と状況は変わってくる。こういうときに、日ごろの修練の成果を発揮できるかできないか・・・・なのである。
そう、ライバルと競うのではない、自分との戦いなのだ・・・そんなことに気が付き、わかり始めたのはこの頃だったとおもう。一度でも一瞬でも「チーッ!」とミスれば、百分の一秒で負ける。そうさ、すべては自分のせいなのだ。時の運、不運でさえも自分にかかっているのかもしれない。スタート前2台ぐらいになったところで最後のイメージを描き、無の境地に入る。集中する自分を作り上げていく。ヘルメットをかぶり長袖を着て、レーシンググローブをしているのに、窓を締め切った真夏の車内でも汗が引く瞬間、それは、スタート地点についたとき。
愛車のエンジン音と自分の心臓の音しか聞こえない。ギヤが1速に入っているか何度も確かめる。「ドクン、ドクン、ドクン」スタートの旗が振り下ろされる。 さぁ、いけ!Go---!前方に見えるのは、第一コーナーのみだ。
この日、ラリー車1クラスは出場台数が少なかったのだろう、1、2クラスを統合されてしまう。ラリー車クラス総合6位におわる。・・・・・負けるときは負けるのだ。
2009年3月26日木曜日
「チームりんどうダートトライアル」ゼッケン34(1981年8月2日)


この日は、暑かった記憶がうっすらと残っている。会場はいつものプラントではなく、山沿いにある少々広めの空き地といったところ。大型ダンプがしょっちゅう走っている感じではないので、わだちができてしまって走りにくい。こういうコースは、1本目によいタイムを出しておかないと、2本目はたいがいタイムが伸びてしまう。
この大会は、ラリー車クラスは台数が少なくて1300cc以上の2クラスに組み込まれてしまった。レビンやランサーあたりと競争せねばならない。そんなわけで、成績はラリー車クラス総合6位と記録されている。たぶん、小さなトロフィーと家庭用品ぐらいの景品をもらったと思う。
この日から、赤と緑のチームカラーに塗り替えている。このカラーリングが我がスターレット1300sの最終形態となった。あとは、腕に磨きをかけ給料を注ぎ込み100分の1秒でも速く走ることに没頭していった。まるで、何かも忘れるかのように・・・。
カラーリングの移り変わりをまとめてYouTubeにアップせり。
・1979年スターレット1300S白を購入
・1980年3月黄色と緑、ダートトライアルデビュー戦
・同年6月練習中に1回転半転倒、改造も含め50万円の出費
・同年7月無垢の白に戻り、ダートトライアル復帰
・同年7月赤い横ラインと赤い屋根
・同年8月赤と緑のチームカラーに変更
2009年3月3日火曜日
「チーム飯田ダートトライアル」ゼッケン35(1981年7月19日)

このころは、正式に地元のチームに入って毎月1~2回はどこかの大会に出場していた。車は、足回り、クロスミッション、LSD、点火系、バケットシート、ロールバーなどは改造または取り付け済み、さらにボディの硬性をあげるためにアイバワークスでスポット溶接増しまでしていた。改造はこの辺で十分だと思われ、あとは腕をみがくだけ、大会のない日曜日や土曜の夜は山に走りに行って練習に明け暮れていた。そして、時々友人とラリーやダートラ談義をサカナにして朝まで飲んだ。
自分の入会したチームはパルサーが多く、赤と緑のラインがチームカラーのようになっていた。このゼッケン77の車は「チェリーFⅡ」、ま、パルサーの親戚というか、このチェリーFⅡの後継機種がパルサーとなったと記憶している。このチェリーは、少々無骨だけれど、そこがいいんだなぁ。オーバーフェンダーが決まっている。もちろんエンジンはバリバリにチューンされていて、この日デビュー戦だった。さりげなく塗装された赤と青のラインがまぶしかった。
自分のスターレットSは赤のラインを入れていたが、この赤と緑のラインが羨ましく羨望の眼差しで見つめていた。ピットに並ぶ赤と緑のチームカラーの一員になりたかった。このラインをカラーリングしても恥ずかしくないような走りをしたいと思っていた。

当時はローカルで、盛んにモータースポーツが行われていた。女性だってたくさん出場して、人数が多いときはレディースクラスも設けられた。クラスは違えども、マゴマゴしていると細腕の女性ドライバーにタイムを抜かれてしまう場合だってある。苦汁を舐めた男たちもかなりいたことだろう・・・・。この日、手書きで張り出された成績表を見ると、ラリー1クラスは10台の出場がある。自分のベストタイムは、1分15秒57。いつも負け続けていた黄色のKP61の選手は、1分15秒96。0.4秒の差は大差といえる。時には、0.01秒差で優勝を逃すときだってあるからだ。3位は1分16秒00で、文句なしの、念願の1位、優勝を獲得したのである。(たぶん、この日が初めての1位だったと思う。)


1位になってなによりも嬉しいのが賞品で、特にタイヤをゲットできることが経済的に助かるのであった。そして、帰宅してから、早々に飲屋街に繰り出しビールを浴びるほど飲んだのはいうまでもない。
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